フラナリー・オコナー「フラナリー・オコナー全短篇(上)」



今までずっと、オコナーが描いていることをうまく言語化できないでいたんだけど、彼女を読みとく手がかりを、意外にもエリアーデが与えてくれた。彼女は、信仰を持つことのできないキリスト教徒とその神を描いているんだ。
エリアーデの定義する「信仰」はたぶんかなり狭義だ。彼によると宗教信者のほとんどは信仰を持つことができずに、相も変わらず祖型模倣と反復を行うだけだ。それでもイスラム教のように、宗教指導者がたとえば聖戦の名を授けて祖型模倣を肯定してくれるのならまだいいが、キリスト教の聖職者は、模倣と反復にとどまるのではなく進歩主義を肯定し、アブラハムと同じような信仰を得ることを一般信者にも要請し、そうであることを前提として宗教教義を運営する。それはたぶん市井の人々には酷で、過重な期待なのだ。そんな期待と現実の信仰の無さとの狭間に打ち砕かれて、オコナーが描く米南部農村地帯の人々は、神の顕現を求め続けることになる。
所収の短篇「善人はなかなかいない」は、ある一家が旅行中に車の事故を起こし、そのとき遭遇した犯罪者に皆殺しにされる話だ。殺されることを察知してイエス・キリストに救いを求める老婦人に対して、犯罪者は言う。キリストがすべてのものの釣り合いを崩してしまったせいで、自分は罪と罰との帳尻があわないはみだし者になってしまった。もし、イエスが本当は死人を蘇らせたりしなかったんだということをこの目で見ていたなら、自分は犯罪者にならなかったのに。そして老婦人を殺し、こう言う。「この人も善人になっていたろうよ。一生のうち、一分ごとに撃ってやる人がいたらの話だがな。」アブラハムの宗教は神の全能性を信じるけれど、でも犯罪者の男はそれゆえに不公平になると言う。神が人の人生の善悪に介入することは許さない、人の間だけでその帳尻をあわせるべきなんだ。
「強制追放者」は女主人の経営している農場に、神父の紹介でポーランドの強制追放者が雇われる話。彼の仕事ぶりを最初は歓迎していた女主人も、彼女の持ち分を侵害する彼に対して次第にイライラが募る。彼女は彼を疎ましく思う。彼が強制収容所にいたことなんてわたしのせいじゃない、わたしが彼に救いの手をさしのべる必要なんかない。神父の「焼却炉、貨車での輸送、病気の子供たち、そして主イエス・キリスト」という諭しに対して、彼女はこう反論する。「一人だけ余分ね。」だが、解雇の直前に、強制追放者は全くの事故で亡くなってしまう。彼女は強い自責をおぼえる。強制収容所の経験は、遠く離れたこのわたしですら償わなければならない罪だったのだろうか。
「河」は説教師が説教をしていた河へ子供がさまよいこんで溺れてしまう話だ。河での説教と洗礼といえばバプティスマ、洗礼の最古の形だ。子供は、自分が洗礼をほどこされたその河のなかの世界へ、潜って行こうとする。キリストの世界へ。だが息が詰まるその直前に、彼はそんな世界なんてないんだということを知る。


米南部ではバプテストはかなりメジャーな宗派らしいよね。なんたって共和党の大統領候補者ハッカビーの支持基盤だし。わたしがまだ幼い頃、祖父は日曜になるとベレー帽をかぶっていそいそと教会に出かけてた。父はごく稀に聖書の一節をすらりと述べる。今ではもう家族の誰も行かなくなったあの教会では、いったい何が起こっていたんだろう。