コレット「シェリの最後」



若く美しく傲慢な男シェリと、老いた美しい高級娼婦レアの、愛の日々とシェリの結婚による別れを描いたのが「シェリ」。これはその続編で、シェリがその後戦争から帰還して過ごす、無為な日々の記録です。
シェリは時にレアを「ヌヌーン」と呼ぶんだけどこれはやはり「ママーン」のことで、彼はかつてはレアに見いだしていた母性を、執拗に追い求め続ける。レアに別離を言い渡したときも、彼女が自分の想定したようには振る舞わなかったことに失望し、また、レアに数年越しで再会したときにも、彼女のあまりの変貌ぶりに絶望してしまう。レア、完全にオバチャン化しちゃってるんだもんなぁ。シェリ哀れWWWWWWWWWWWあ、思わず草はやしちゃいましたが、そう、amazonのレビューと自分の感想とを比較して思うに、わたしはこの本を読むには元気すぎるのだろう。
ただ、この人は変わらない、もうずいぶん経ったのに、ということの与える安心感は相当に大きいんだなと改めて思った。恋愛なり友人なり人と関係を築く中で、彼らは結局は彼らの中に仮定したわたしの像を前提としてわたしとコミュニケーションをとろうとする。だから、1年なり数年なりのブランクを経てもその仮定像に大きな変更を加える必要が無いということは、持続可能な関係の予言でもあるんだ。たしかに頻繁に接触すれば、いかに人が変わろうと仮定像との差は微調整していける。だけど、変わらない、ということはそれに匹敵する緊密さを持ちうるのだ。
と言うより、仮定像をつくることそのものがコミュニケーションの本質だと言ってもいいから、そういう意味では、デリダとガダマーの内在対話じゃないけど(07.12.27)、接触しないことによってでも、関係は進展する可能性がある。…ふむ、どう考えても、上記「仮定像」にはなにがしかの学術用語が該当すると思うのですが、なんだっけなあ。