ジャック・デリダ「雄羊」



世界は消え失せている、私はおまえを担わなければならない。


表面上は不首尾に終わった哲学者同士の対話、うちどちらかが亡くなったときに、或いは亡くなる前からすでに、片割れに内在されていた対話について。デリダが、ガダマーとまたはツェランとの間で、行い続けた対話について。
他者との対話はそもそもから、どちらか片方が先に亡くなり世界が消え失せる不安を抱えていて、または対話が常に不首尾に終わり続けるという挫折、それはフロイトの言うところのメランコリー、調停できないままに内在化された喪の作業の繰り返しであり続け、それはそのようであることから逃れられない。それは義務である。そしてホロコースト、贖罪の雄羊との、沈黙の中で行われる対話を通じた祈り。
共有されたメランコリーを通して発生する、自分と反目するものに対する赦し、自分が反目したものに対する祈り、人間というひとつの群れに十分な傷つきやすささえあったならばいいのに、そうしたらこう言える、「神はいなくても構わない」、喪で地上を覆い尽くすために、群れよりもひとつ上の審級を召喚し、それに対して赦しや祈りを捧げるなんて本当ならばしたくはない。


デリダはどうしても難解だけれど、こういう講演録は平易でわかりやすい。12時間労働の後のくたびれた頭でも理解可能です。カトリックのクリスマスミサに冷やかしで?参加して「赦しと救い」の洪水に参ったのと、クッツェー「エリザベス・コステロ」で内在する対話について考えさせられていたのとで、それらを考える糧としてはまたとない。