「未来」2007年8月号(No.491)



…私は抽象的な論理をたどるときでさえ、それを誰がどんな顔をして言っているのか、出来たら見てみたい、という気持ちを払拭しきれない具体派なのだ。確かに、学問の成果は個人を超えてこそ意味がある。少なくとも真理は非人称。数学の定理を誰が言ったか、それは問題ではない。でも…(と、小さい声になるけれど)ピタゴラスとかパスカルとか、名前が出ると、妙に安心する。つまり、学問的な言説は誰かから聴くものであり、それについて考えるのは自分とその人の対話だというフィクショナルな枠組みからなかなか逃れられない。思考の土台に人と人とが向き合う場を設定したくなるのだ。…
長谷川摂子さんホントいい人です。
論が複雑になったり極めて抽象化されたりしてくるにつれ、括弧に入れて保留され仮定にとどまって、あるいは直感的な理解ができない、そんな部分が増えて、自分が考えだしたことのように自在には考えることができなくなってく。そんなときは、論を展開してる人の顔を見て、膝を詰めて話を聴きたくなる。幸い、人知の集成の歴史は、個人の名前をよくとどめていて、それは署名であると同時に、後世の人たちへのささやかな窓口になるのかもしれない。
ピタゴラスパスカルも、ベルヌーイもシュレーディンガーも、名前そのものに既にその論らしい空気を纏ってる。かの方程式も、「シュレーディンガー」という人間の名前を戴いてようやく、その方程式そのものだけで多様なイメージを喚起できるようになったんじゃないか。