ジャック・デリダ「触覚、―ジャン=リュック・ナンシーに触れる」



漸く読了。携帯するにはボリュームがありすぎる本なのでなかなか読む時間がとりにくかったし…。
ナンシーやデリダの持つ厳密さは、一般的な意味での厳密さとすこし異なる気がする。(ところで本書の中で、デリダはナンシーの厳密さに言及している。)以前にサイードの「オリエンタリズム」を読んだときに感じた厳密さは、全くの新しい説を発表するときに受ける様々な批判を事前に考慮した上での、自説以外の可能性の排除と自説の不備に対する釈明という方向に向けられているのを強く感じて、それは論理的整合性なり隙の無さなりという従来的な意味での厳密さで、実はそれが多少、思想書を読むときの愉しみに水を差した。いやスッゴク面白かったけど。一方で彼らの持つ厳密さは、例えば「すべてが神である」ことを証明することで神を否認するように、あるものをそれが既に黙認されているその地平において批判するのではなくー例えば「神はいない」という宣言は、神がどのような存在であるかの共通の了承を前提にしているー、予め黙認されていることそのものを覆すことに費やされる。デコンストラクションですから!それにはおそらく本来的な意味での厳密さが存在していて、わたしたちが長年かけて構築した意味の体系そのものを疑って再構築をはかるということであり、そこに一連の記号論を経た後に生まれた思考形式の執念深いまでの厳密さを感じる(←や、意味内容の生成について歴史的にいろいろあったなと)。そしてもし物事に本質というものが存在するのであれば、きっと辿り着くのに迂回できない経路だ。
しかしそのくせ文章そのものでは、神話上のプシュケと精神という意味のプシュケが同じ綴りであるのをネタに論に発展させたり、他諸々の発声音による連想がなされたり(サンス=感覚、方向など)、「…私はそう思わず、本当はそう思わず、単純にそうは思わず。それだけでなく、一瞬記憶をなくしても、そうは思うわけでもなくーいずれにしても。」のような冗長でポエティックな書かれ方をしていたりして。文章が限定的な意味としてしか伝わらないのを避けるかのよう。


…というのはこの本の読書メモになってないと今気がついた。多分30パーセントくらいしか理解できてないと思うので(いやそもそも正確な理解なんて存在しないんだとか言われそうだ)、おもしろかったことだけ箇条書きにしてメモしよう。はぁ、学術用語を正確に使えるようになりたいものです。
・夜であっても昼であっても(光の有る無しに関わらず)、視覚というより眼差しが交差していると感じること、見て、見られていて、見ていると感じ、見られていると感じることによる自分の存在の確約、そしてそれは触覚についても。
・また、視覚にとっての眼差しと、触覚にとっての何か(愛撫って訳はどうよ?)?
・他者に依存し仮託され漸く承認されるような存在の有りよう。
フッサールメルロ=ポンティの触覚に関する話の概観、現象学って視覚優位かと思ってた、「見えるものと見えないもの」とか言うし。
・プシュケの延長されたそのまだ見ぬ先端で本質に触れるということが、0.99999999…=1のようなトートロジーを連想させる←あくまでわたしが。
・英語のTOUCH(触れる、感動させる)というのの思考連鎖あそびはおもしろそう、物理的な触覚と心の揺れ動きを貫く。