「現代思想 10月臨時増刊 ジュディス・バトラー」



論者によって意見のブレや用語訳出の仕方が違うあたりが、現在進行形で記述される哲学のおもしろい側面だと思う。そしてまた、現代社会や政治に関するコミットメントが要請されることも同様に。チョムスキーやサイードソンタグからは遠く世代の離れたバトラー(ユダヤ系ばかり?)も、9.11以降は論考が政治方面に大きく転回したのらしい。
アメリカ政府が中東政策の一環として、一般市民によるアラブ諸国の死者への喪を忌避している…と言うより、服喪が行われないよう、彼らの生そのものを最初から認識させないことを、まず彼女は批判する。そして、国家によって禁じられた兄への喪を実行したアンティゴネーになぞらえ、応酬が繰り返される戦下においてメランコリー(フロイト、対象が明確ではない「喪」)が内包されることの意義、ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ、被傷性)の感覚の共有を記述しているくだりが瞠目。
あと、転回以前の話として、ひとまず「クイア」という言葉が何を指すかは理解できたかと…たぶん。結果として「マイノリティ」と指示対象がバッティングすることが多いのがいまひとつ内容を掴みかねていた原因だと思うのだが。すごく身近な地点に引き寄せて考えれば、例えば化粧する男性とか。化粧をすることの意味をよーく考えてみると、現代においては女性であることとは直接関係がない、むしろ他人に与える印象を外見によって操作する必要があるかどうか、例えば接客や広報を職業にしているかどうか、などに関係するということには容易に気付く。おおむかし、性差と文化規範とが硬直した関係にあった頃の女性に割り当てられていた社会規範が、まさに化粧を要請していた、その名残にすぎないという訳。しかしそれがあまりに根強いために、本質的には「クイア=奇妙」ではないにも関わらず、規範が変化するその過渡段階においては奇妙な身振りに見えてしまう。しかしそういった具合に文化規範の周縁に押しやられている人々を、逆にそれらを攪乱する契機とし、多様さを拡大させる足掛りとするのは意義あることなのだ。…とまあ都合のいいアリバイをブチ上げることができたので、明日からノーメイクで出掛けるのも気楽になった私です。

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英文学者の村山敏勝さんが逝去された。38歳。クイア論を媒介にしておそらくこれから彼のことばを多く聞くはずだったろうに、残念。(彼のblogで、この本での鼎談を知っていました)