舞城王太郎「スクールアタック・シンドローム」



スクールアタック・シンドローム
俺(語り手)の部屋に闖入した辻宰司は俺に耳を喰いちぎられ、俺を恐れつつも俺に怒っていたからその怒りを、他のもっと弱い奴の耳を喰いちぎることで晴らしていった。多摩川河川敷にいた野球少年たちが犠牲者として巻き込まれていくのを見た、俺の友人の井上慎吾は、辻宰司の頭をバットで殴りつけた。「井上は暴力に取り憑かれていて、過剰な防衛を一気に施し」、辻宰司の頭を割れたスイカのようになるまで叩き潰した。
暴力の伝染や防衛が過剰になることについて、身近では例えばこんなことがある。誰か人を非難したとき、相手が自己弁護ではなく私への攻撃をもって応戦してくることがある。ああ傷つけてしまったなと気付く。私の言葉は相手にとっては暴言そのものだったのだろう、相手もまた、私を傷つけるためだけに暴言を吐いている。相手は攻撃の言葉どおりのことを普段から考えている訳ではない。本当は酌量の余地があることを知っているけれど、そんな留保事項に思い至ることができないほどに、私は相手を追い込んでしまった。そう了解して、私はノーガードでボディブローを浴び続ける。
さらにもう少し例えの範囲を広げると、最近の嫌煙の風潮のことを思う。ふと気がつくと、ノン・スモーカーだった人がいつの間にかスモーク・フォビアになっている。レストランの隣のテーブルで、いかにも食後の一服のみ、として煙草を吸い始めた人のことで、顔を露骨にしかめてみせる人が確実に増えた。安めのレストランだと特に、喫煙者も嫌煙者もマナーが悪いから、どちらでもない私は居心地が悪い。嫌煙感情は明らかに社会的に伝染していて、彼らは喫煙者に対して行き過ぎた非難を浴びせる。
Furthermore, after suffering the first attack in its history to its mainland from terrorists in 2001, America took a deffensive attitude too excessive to maintain peace. In February this year, the Eminent Jurists Panel on Terrorism, Counter-Terrorism and Human Rights, established by the International Comission of Jurists, has mentioned in its report, " In the course of this inquiry, we have been shocked by the extent of the damage done over the past seven years by excessive or abusive counter-terrorism measures in a wide range of countries around the world. Many governments, ignoring the lessons of history, have allowed themselves to be rushed into hasty responses to terrorism that have underminded cherished values and violated human rights. ...(sorry I read only press release, but whole report"Assessing Damage,Urging Action" is on website of ICJ)" I don't know whether the terrorists' attack had become an available reason to invade the Middle East or the Iraq war was done fairly under the name of justice, but I'm sure that the hysteric mood broadcasted from America was based on terror and maybe that terror made people allow the excessive couter-terrorism.(うまく用語が和訳できない…)実際のところ、暴力の伝染は報復という形でおこなわれることが多いけど、それは赦しとは決定的に相容れない。このことは、法が罪を罰すれど、それを赦しはしないという事実に密接に関わっているようであるのが面白い。報復なんて前法治的に見えるけど、実は法治下ならばこそ当たり前なのかもしれない。だとしたら、法は正義なんかじゃないだろう。暴力を止めるための手段を講じていないのだから。


「我が家のトトロ」
ギャラがどっかにただ消えたんじゃなくて、誰かに誘拐されたんだというふりをすること、僕と二人でギャラのことを心配するふりをすること、僕にギャラを探させて、僕がギャラを探しているふりをしてるだけだと知りながらも知らないふりをすること、そしてそれを長い間続けて、ようやく諦めたふりをして、長い間に培ってきた大きな「ふり」の舞台からすっと降りて、その舞台だけが手を離れた紙飛行機のように軌道をまっすぐに飛びつづけていくのを見送りもせず、目をそらし、そんな舞台なんてなかったことにすること、そこで延々踊っていた二人の時間もなかったことにすること、忘れたふりをすること、こういうことをゆっくりと演ずる長丁場の二人芝居が、たぶんりえには必要だったんだろうと思う。(以上引用、ギャラは飼い猫、りえは語り手の妻)
ふりを尊重することは、相手の意志を尊重することだ。本当はあの人いま辛いはずなのに笑顔でいるなんていたたまれない、とか、平然とふるまってるように見えるけど傷ついてるだろう、とか、これが子供ならまだしも大人に対して妙な邪推をする人がいるのが困る。いや、類推することそのものはいいけど、それが数少ない材料と手前味噌な経験による単なる憶測でしかないということを理解せずに、それを事実と認定して他人に吹聴したりそれを根拠として対応を決めたりしているから手に負えないのだ。もっとその人の意志を尊重したらいいのに。彼が笑顔でいるんなら彼の気持ちはそういうものだとして受け止め対応をする、というのはあらゆるケースで正解を得られる。その笑顔が心からなのだったらまさに正確な対応になるし、仮に作り笑顔だったとしても、彼がわざわざ笑顔を作ったというその意志をよく汲み取った対応になる。つまり、彼の本心がどうであるのかなんて、対応を決めるのに影響しない。(象徴界フェチ。)
でも実際、人は他人の気持ちをいろいろに類推する。あらん限りの情報を引っかき集めて、憶測に憶測を積み重ねる。信憑性の度合いは常に推し量られるべきだけど、でも逆に、自分に対する誰かの憶測に対しては、その信憑性を教えてあげられない。コントロールできない自分が他人の中に存在しているとは、なんて遣る瀬ないことだろう。


ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」
……(自分の伯父である変態クソ食い幼児クンニ野郎の淳一にずっと虐待強姦されてきて、)杣里亜が学んだことは、問題は大きくなればなるほど自分の身はまだ安全な方に近付くということだった。淳一が変態過ぎるから、行動が派手すぎるから、体面を慮って家族は淳一を自分から遠ざけてくれる…ということを踏まえた杣里亜は、自分を護るために、逆説的だけど、とことん酷い目に遭うよう他人にしむけた。自分を攻撃してくる相手をできるだけ多くの観客のいる場所で挑発し、煽り立て、酷く殴られながらも悪態をつき続けられるようになったのだ。(この後杣里亜は、学校内で猛烈ないじめを受けている最中に、語り手のガールフレンド智春に首をねじ切られて殺される。が生き返ってしまったので、殺しても死なないことを知った淳一に、さらに残酷な仕打ちを受けることになる。)
ここで杣里亜の生は決定的に薄っぺらい。生きていないも同然の仕打ちしか受けてない。でも、生きているけれど死んでいる、中間地帯にいるような状況には聖性があるんだよね確か、だからこそ杣里亜は復活して、より一層、生死の曖昧な地帯に突入してしまう。
暴力や殺人のリアリティって、どこに依拠するんだろう?この物語の中では、智春の殺人行為は起こってしかるべしと思えるけど、でも彼女に共感する訳じゃない。彼女が殺人を犯した理由は完全に創作だ。ただしすごく念入りに状況が作られていて、ロジカルに殺人の必然性を成り立たせているのが面白い。もともと、共感を土台にして殺人にリアリティを持たせてる小説は個人的には好みじゃない。殆どのワイダニットwhy done itがそういう方法論で物語を成立させようとしているけど、だからこそ私は、そのジャンルでめぼしい小説を見つけるのに苦労してしまう。(桐野夏生「グロテスク」みたいな傑作はある。)それに、共感を土台にしてしまうと、その先にある残虐な殺人行為は悪だから模倣するな、という歯止めを完全に読者のモラルに頼らざるをえないから、何だか心もとない。前に何かの読み物で、子供向けアニメの「名探偵コナン」では殺人犯への共感要素を排除して殺人が悪であることを徹底させていると聞いた。それは本当に正しい。