サミュエル・ベケット「モロイ」



小説。ニ部構成で一人称語り。
第一部はモロイの独白が改行無しで延々100ページ以上続く。第二部はモロイの元に向かう調査員モランについて。
第一部と第二部が、偶然にしては過ぎるくらいに、彼らの行動や思想やその場所に関して類似性を持つに至る。彼らはともに、不具の足を持ち、母親を喪失し、地面を這い回り、自分の任務すら定かではなく、人々に半ば見捨てられ、自分の内面的な存在へと後退していく。ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」においては、劇を構成する二幕の間に取り持たれた写像関係は「反復」だったけれど、「モロイ」ではこれを何と名付けるのが妥当だろうか。
第一部のモロイの独白はすべて圧巻で、それは彼の身に起こったことを記す日記であり、かと思えばこれは作り話であると断言をし、あることを論じているのだと述べる。彼自身の生の状態は彼の思考如何で認識論的に大きく揺れ動き、その都度彼は彼の個人史を書きかえてしまう、半分朦朧とした意識で、一度言ったことを取り消し、あるいは別の話題にすぐに転移する。次第に悪化する両方の足とともに、彼が自分の身に起こっていると想定している状況は悪くなる一方で、町を離れ森へ入り、食糧の施しもなく、一日の移動距離は短くなり、次第に体は地面へ伏せへばりつき、意識の上でしか人間であると認識されないような化物へと変化していく。
第二部において一見平凡な生活を送っているように見えるモランが、モロイのいる場所へと近づくたびに次第に生を破綻させていくさまは、モロイの存在場所を中心として同心円状に聖域が発生しているようであって、あるいは彼の存在が伝染性疾患の根源であり、モロイに物理的に近付くにつれ、モロイの持つ自己認識や自省がそのまま彼に近づく者を毒し、彼の意識の渦へと巻き込んでしまう。そして肉体すらも。モランはモロイの精神状態や肉体状態に侵され、強い類似性を帯びはじめる。健全な肉体を持ち食事をとり射精をし夜やすらかに眠る生活から、自分の心身状態によって生の記憶が大きく変化しうるような生活へ。自分が本来は享受する一方のはずの環境ですら、自分自身の認識の如何で変わってしまう。結局モランは、モロイに関して与えられた任務を最後まで思い出すことなく、連絡員の指導で、モロイのいる地を非常な苦労のもとに去ることになる。
身体器官の不具が広がるにつれ思考は鋭敏さを増しそれは序序に彼自身を支配し始め、彼を取りまく環境を支配し始め、彼の範疇に迷い込む者を蝕んでしまう。彼の思考に被爆されてしまった者は、訪れたままの状態では引き返せない。他者の思考になす術も無く曝されるという経験、これはごく軽度なレヴェルでは日常生活においてでさえ遭遇することだけれど、まれに自分とは全く違う論理で動く者に接触すると、強烈な変化をこうむることがある。自分が常識だと想定していることの範疇を軽々と超えて、でも彼ら独自の論理は必ず内包しているだろうと思われて、彼らはその論理の方を信用して行動しているに過ぎない。その論理構造を少し離れた地点から見極められるようになることは、自分の視界を押し広げるための駆動力としては破壊的に役に立つ。結局、どう行動するか把握できない相手に対していちばん恐怖を感じるのだ。あるいは畏怖。真の暗闇を必死で手探りするのに似ている。彼らは今までにも私自身の個人史上にまばらに分布してきたし、或いはもう少し共感を得られるレヴェルの他者を挙げるなら泥酔者であったり動物であったり赤ん坊であったり異性であったり知的障害者であったり神であったり幽霊であったりした。そんな彼らの論理を畏怖することなく推測し受け入れる術はそれぞれとの接触を多くすれば叶うし、あるいはよく訓練されていればもっと容易になるはずだ。たとえばモロイのように傍目から見ればあきらかな異物についても、自分と並列する、でも違う論理を持つ者として受容可能であり、そのレセプターは意識という次元で生成されることである故に、読書経験によってでさえ増殖していく。そのためには、不条理などという一言でモロイを排斥しないこと。人を排斥することによって自分の対人感情の整理を付けたりしない。排斥しないこと排斥しないこと排斥しないこと。違う論理を持つ者の表面を流れに逆らわず泳いで、でも深い水底に目を凝らす。


……どうも、なんと言ったらいいか、わからない。言いたがらない、言いたいことがわからない、言いたいと思っていることが言えない、それでいていつも、ほとんどいつも言う、これこそ、記述の熱のなかでも見失わないことがたいせつなことなのだ。…………そう、それは、外見とは違い、終わった世界だ、それの終わりが出現させた世界だ。それは終わりながらはじまったのだ。これではっきりしただろうか?そして私も、そこにいるときは、終わってしまっている、両の目も閉じる、苦しみも絶える、私は終わる、生きているものにはできないように折れ曲がって。…………私にはもう、自分がなんのためにそうしているのかよくわからない。そうしたことは、ますますわからなくなっていく。隠すこともない、なぜ隠すことがあろう、それにだれに隠すのか、あなたがたに?なに一つ隠せないあなたがたに?…………それに、私個人としては、昔から、死よりも隷属状態のほうがましだと思ってきている。むしろ、殺しよりもと言うべきかもしれない。なぜなら、死というのは一つの条件であり、それについては、私には一度も満足した表象を思い浮かべることができなかった、したがって、悪と善の総決算のなかで、正規の計算書に入れることは正当でないからだ。それにひきかえ、殺しについては、それがまちがっているにしろ正しいにしろ、とにかく信頼に値し、ある種の状況のもとでは、それを参考にすることが許されると思われるような概念を持っている。いや、それも、あなたがたの概念のようなものでなく、私のほかの概念と同様に、いつもびくびくして、冷や汗をかき、震えていて、常識とか落ち着きとかは一原子たりともはいることがないものだが、私はそれに甘んじていた。しかし、死についての私の観念の混同がどこまでいっていたかをちょっとごらんいただくために、率直に言おう、私は、条件としては、死が生よりさらにひどいものであるという可能性を排除してはいなかった。だから、死に飛びつかないのはあたりまえ、死をためしてみようと思うほど我を忘れたようなときでも、ちょうどよいときに思いとどまるのがあたりまえだと思っていた。これが私の唯一の言いわけだ。…………


ベケットの小説を読むならこの順でと推薦されたので以下にメモ。
4、5、6の間は順不同で良し、*はどのタイミングでも良し。
1)モロイMolloy
2)マローンは死ぬMalone Dies
3)名づけえぬものThe Unnamable
4)伴侶Company
5)いざ最悪の方へWorstward Ho
6)見ちがい言いちがいIll Seen Ill Said
*)また終わるためにFor to End Yet Again and Other Fizzles