ジュディス・バトラー「ジェンダー・トラブル」



性(ジェンダーは勿論、セックスまでも)がいかにして人工的に構築されたのかを論じるのがこの本の主旨。1990年に出版されて、当時のジェンダー論を刷新したのらしい。
政治/権力/法/禁止などが身体に配備させる性欲の機構に関してフーコーを援用し、メランコリーを保持させられることによる近親姦と同性愛の禁止においてラカンを援用して、性が社会的に要請されそれを各個体がインストール(ビルトインではないことが多分重要)していったそのメカニズムをバトラーは暴く。その上で、男女平等とか同性愛者の権利とかいう、そう発言した時点で既に男/女、マジョリティ/マイノリティ、という構造に回収されてしまうようなものを叫ぶのではなく、ほころび(レズビアン/XX染色体を持つがペニスがある人)を契機と見なし、文化規範が変化し続ける中で、これまで要請されてきた性の規範そのものを攪乱し続けることが必要だと彼女は論じている。(←多分。。。)


個人的に、弱者の権利回復を訴える論文は敢えては読む気がしなかった。なぜならそれは殆どの場合パフォーマティブであり、結局は自分の権利を拡大させたいだけのようにも聞こえてしまうからだ。ジェンダー関連はその一角だったが、この本におけるバトラーは見事としか言いようがない。彼女がレズビアンであることや、そういう種類の人たちのヒーロー(ヒロイン?)らしいということは耳にしていたが、この本での立ち位置は非常にニュートラルで、読了後、あれ?なんでわたしは男の子が好きだったんだ?などとつい思ってしまった。それこそ幼い頃はついてるかついてないか以外の差なんてなかったし、そんなこと確認してから好きになったわけじゃなかった。と考え始めてゾッとする。それ明らかに文化の影響だった気がするわ。くそう、今さらバイセクシャルにはなれん、生きやすかったことは喜ぶべきだが、人類の半分しか愛せないなんてすっごく損した気分だ。
それに加えて、出産時についてなかったってだけで女というセックスを強要され続けたんだというのもいまいち納得いかなくなってきた。出産に立ち会った誰だか知らん奴が、私の股間を見た瞬間に、私に命令を下したのだ、「女になれ」と。染色体検査くらいはして欲しかったし(泣)、男女の判断をもうあと数年待つようなシステムにしたら、性同一性障害に苦しむ人はいないんだろうに。(ところで、性同一性障害と認知された場合は、身体的な性ではなく、精神面での性がその人の性だと必ず認められるのだろうか?だとすると現代においては、ペニスの有無というのは絶対的な性の基準ではなくなったってことなんだろうか?)まあもっとも、現代では男女の区別がさほど重要ではない場面が多いので(就学/雇用など)、この二分割システムは形式的なものになっていくのかもしれない。
俗に「食欲、睡眠欲、性欲」が人間の三大欲求だと言われたりして、食欲と睡眠欲は個体の生存に必要だけど性欲は種の保存じゃん社会的なものだよ、とずっと思っていて、そんな全体性を前二者と並列されるのにひそかに恐怖を感じたりしていたんですが。性欲は、支配欲とか独占欲とかと同じ類いらしいと考えても良いと判ってとりあえずほっとしました。