カトリーヌ・マラブー 「わたしたちの脳をどうするか」



わたしがまだ幼い頃には、身体における心の存在場所は心臓だと言われることもあった。感情の昂りに呼応する臓器。ところがいつの間にか心臓は代替可能な存在になり下がり、心停止は人の死とは見なされなくなった。そして身体の未知領域であり今のところは移植不可能な脳が、心の存在場所として新たにあてがわれた。アイデンティティは、最も解明の遅れている最後の砦へと退却したのだ。しかしその脳も、序序にその未知領域を狭めつつある。わたしたちの脳をどうするか?
マラブーは、脳の持つ物理的な可塑性(プラスティシテ、形を受け取る能力と形を与える能力)に着眼し、脳のメカニズムと歴史という概念に写像関係を見いだしている。わたしたちはその生成過程に立ち会い、それを作り上げるのに加担し、それを解明しようと努めるのに、わたしたちはそれを知らない、脳/歴史。わたしたちの脳をどうするか?という問いはそのため、わたしたちの世界をどうするか?という問いにも対応する。可塑性、特に形を与える能力に多くの可能性を賭け、既に存在する与条件を引き受けつつどういう方向に進ませるのか、その指針を示すことだ。
脳のメカニズムの解明が、脳をどうするか?という問いを生じさせる例。日々報道される様々な刑事事件で、容疑者の精神疾患刑事罰に大きく影響を与えるが、犯罪者にとってそれが免罪符となる根拠は何か。彼には責任能力が無い、と言う場合それでは誰が責任を負うのかが明確に示されないが、暗黙にそれは疾患を生み出した社会が有責である、ということになってはいないか、そして、犯罪者が本来個人で負うべき責任を社会全体で負うシステムが、様々な「〜症候群」を精神疾患として認める過程で生じていないか、よくよく考えたほうがいいだろう。わたしたちの社会生活で起こる様々な負荷を脳が受け取ったその形が引き起こしたのだという意味では社会の有責性に、しかし同時に(マラブーはおそらくこれを個人をアイデンティファイする所以だと考えているのだと思いますが)、個別の脳がそれぞれ自身に与えた形の結果であるという意味では個人の有責性に付されるべきことなのだから。この場面において脳をどうするか?と問うことは、社会が有責であるという判断が下された場合に、では脳がそう形成された原因の外部刺激に対して、どのように脳の可塑性を進行させたらいいのか、その指針を立てることであり、社会をどのような方向に進ませたらいいのか、その指針を立てることでもある。
という訳で、脳についての論考は解剖学とか薬学とか心理学とか文化人類学とかエセ文化人とか色々な分野の人が書いてて興味が尽きないけれど、マラブーさんはデリダの下でヘーゲル論を書いた生粋の哲学者とのこと。の割りにはストリクトな文体っすね…いいことだけど。日本語版序文を港千尋さんが書いてるけど相変わらずいいこと言ってる。