ジャック・ラカン「エクリ1」

Jacques Lacan「Ecrits」


・論理的問題
刑務所の所長が三人の囚人をとくに選んで出頭させ、次のような意見を伝えた。
「きみたちのうち一人を釈放することになった。その理由はいまここで言うわけにはいかない。そこで、もしきみたちが賛成するなら、この一人を決めるために或る試験をしたいと思っている。
いまきみたちは三人いるが、ここに五枚の円板がある。そのうち三枚が白、二枚が黒というふうに、色だけによって区別されている。わたしはこのうちどれを選ぶか理由を言わないできみたちの背中に一枚ずつ円板を貼る。直接これを見ることはできない。ここには姿を映すようなものは何もないから間接的にも見える可能性はまったくない。
きみたちは、仲間をそれぞれのつけている円板はとくと見ることができる。もちろん、きみたちの見たものをお互いに言うことは許されない。きみたちの関心事だけは口どめされるわけだ。われわれの用意した釈放の処置の恩恵を受けるのは、最初に自分の色について結論をだしたものにかぎるからだ。
もうひとつ、きみたちの結論には論理的な理由づけが必要であって、単に蓋然性だけではいけない。このために、きみたちの一人が結論を言う準備ができたら、それを審議するための呼び出しを受けるためにこの戸口から出てもらいたい。」
この提案は受け入れられて、三人の囚人にはそれぞれ白い円板が貼られた。黒い円板はこのとき使われなかったけれども、それはもともと二枚だけ用意されていたことに留意していただきたい。さて、囚人たちはこの問題をどのようにして解決できただろう。
・完全な解答
三人の囚人は、いっとき考えた後で、いっしょに数歩前進し、並んで戸口を出た。彼らはそれぞれ次のような似かよった解答を用意していた。
「私は白です。それがわかる理由を申し上げます。私の仲間たちが白である以上、もし私が黒であれば彼らはめいめいこう推論できるはずです、『もし自分も黒であれば、もう一人の仲間は自分が白だということがすぐにわかるはずで、そうすればただちに出て行ってしまう。だから私は黒ではない。』そこで二人とも自分が白だと確信していっしょに出ていってしまうはずです。彼らがそうしないのは、私が彼らと同じ白だからです。そこで私は自分の結論を言うために戸口に進み出ました。」
このようにして、三人は同じような結論の理由づけに力を得て同時に出て行った。(p.263)


……われわれが今なおフロイトの独創性に負っているこの最初の状況なるもの──……これはまさに、もっとも嫌悪される二つの形態、つまりその影が<エディプス>の病理学全体を生み出すあの<近親相姦>と<親殺し>の形態による犯罪の状況です。
医師であるフロイトは……1912年の「トーテムとタブー」によって、原始的犯罪のなかに普遍的な<法[掟]>の起源を示そうとしたと考えられます。この論文はいくつか方法上の批判を受けるかもしれませんが、重要なことは、彼が、人間は<法>と<犯罪>によって始まるのだということを認めた点にあります。それはとりもなおさずこの臨床医が、法と犯罪の意味作用は単に他者に対する個人の価値によってではなく、同時に個人の自分自身に対する自己確立によってその個人の形までをも支えているのを示したからでした。
こうして超自我という考えが生じてきたのですが、……それは世紀末の思想家の予言と奇妙な対照をなしていて、絶対的自由主義者によって培われたさまざまの幻想にとっても、宗教的信念からの解放と伝統的羈絆の衰弱によってモラリストをとりこにしたさまざまの不安にとっても、ともに満足のいかない人間像です。老カラマーゾフがその息子に向かって<神が死ねばすべてが許される>と言ったときその眼は情欲に輝いていましたが、それに対してドストエフスキーの主人公らしい虚無的な自殺について夢みたり、ニーチェの風船のなかに一生けんめい息を吹き入れようとしたりするこの青年は、悪態と身振りの限りをつくして<神が死ねばもう何も許されません>と答えるのです。(p.177)


拷問が法律上の習慣から廃止されたのは、ちょうどわれわれの社会が観念的には人間の自然的存在の抽象的概念に基礎を置いている人権宣言を公布したときです──……社会的信用から抽象されたこの新しい人間が言葉のいずれの意味からしても、もはや信用されうることもされるべきでもないからであって、言いかえればこの人間はもはや罪を犯しうることがないので、犯罪者としての彼の存在と、同時に彼の自白とに信を置くことができないからです。それ以来、犯罪の動機とともにその理由が必要になりました。そして、これらの理由も動機も理解可能なものでなければならず、しかも難局にある<刑罰の哲学>を再考しようと努めた人々のなかのもっともすぐれたひとりが言っているように、万人に理解可能でなければなりません。そして、これは不正な忘却を訂正させるだけの社会的公正をもって行わなければなりません。われわれがあげたひとの名はタルドJean Gabriel Tardeですが、彼の言葉によると、これは被告の完全な有責性のための二つの条件、すなわち社会的共通性と個人的自己同一性を含んでいます。(p.187)


結局、言語学を参照することが、われわれを或る方法へと導くであろう。その方法は、言語活動における共時的構造作用を通時的構造作用から区別することによって、われわれの言語活動が抵抗と転移の解釈のうちに持っている異なった価値をより良く理解することを可能にし、あるいはさらに、抑圧に固有な効果や強迫神経症における個人的神話の構造をも微分することさえも可能にするものである。(p.393)


過去の読書メモをながめて懐かしむ。2007年3月の読書メモでは分厚すぎて「エクリには踏み切れない…」とぼやきつつ「家族複合」を読んだが、同年7月には当時出版されたばかりの英訳CompleteEdition版を読み始めていた。(それまではSelection版しか出ていなかったらしい。)
ところがその後、冒頭のSeminar on "The Purloined Letter(ポー「盗まれた手紙」の分析)で早くも読むのを中断していた。知らない単語はある程度とばしてぐいぐい読み進める、ということが許されるほどヤワな内容でもないし、そもそも学術用語の英対和訳を把握していない。この分野のコンテクストを日本語で培ってきた以上は、エクリだけ単独で英語読みしてもきついのだ。そんな訳でまずは邦訳で。邦訳は出来が悪いから英訳にしろと推薦者に当時忠告を受けていたのだがやっぱり無理です。