ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論(3)都市の遊歩者」

Walter Benjamin「The Archades Project/Das Passagen-Werk」


街路はこの遊歩者を遥か遠くに消え去った時間へと連れて行く。遊歩者にとってはどんな街路も急な下り坂なのだ。この坂は彼を下へ下へと連れて行く。母たちのところというわけではなくとも、ある過去へと連れて行く。この過去は、それが彼自身の個人的なそれでないだけにいっそう魅惑的なものとなりうるのだ。にもかかわらず、この過去はつねにある幼年時代の時間のままである。それがしかしよりによって彼自身が生きた人生の幼年時代の時間であるのはどうしてであろうか?アスファルトの上を彼が歩くとその足音が驚くべき反響を引き起こす。タイルの上に降り注ぐガス灯の光は、この二重になった地面の上に不可解な(両義的な)光を投げかけるのだ。(p.69)


神は創世の仕事を果たしたのち、休息した。第七日目のこの神こそは、市民が無為の模範としたものである。遊歩において市民は神の偏在を手に入れ、賭けごとにおいて神の全能を、研究において神の全知をものにする。──この三位一体こそは、ボードレールのサタニズムの根源にあるものである。──無為に過ごす者が神に酷似していることは、「労働は市民の誉れ」という(旧プロテスタント的な)言葉がその効力を失い始めたことを示している。……無為という条件の下では孤独は重要な意味をもつ。どんなに些細もしくは貧相な事件であっても、そこから潜在的に体験を解き放ちうるのは、孤独だからである。孤独は、感情移入を通じて、どんな偶然の通行人をも、事件の背景に役立てる。感情移入は孤独な人間にのみ可能である。それゆえに孤独は真の無為の条件なのである。(p.360)


ベンヤミンの足跡をたどるのだけで必死だった、下ばかり向いてただひたすら歩くしかなかったんだと思う。ここまで追いかけて漸く、彼がわずかに残していった気配を感じ取れるようになった。彼がどちらに彷徨っていったのか、何に惹かれてそちらへ向かったのか?彼が残していった熱のかたちに自分自身の姿をすっぽり収めるようにして、文字の町を彷徨い歩く。パサージュ論はベンヤミンが作成した膨大なメモの集成で、他の著作家からの引用と彼がそれに付した注解、実際に起こった事象への注意喚起など、さまざまな内容によって構成されている。それらは未だ他人に伝えることが前提とされていない状態の、まさに彼の生の記憶のままであって、わたしはそれを糸口に、ベンヤミンに憑依しようと試みる。ベンヤミンの姿は?パリの図書館で閲覧机にかがみこんで、書籍を横に据えて一心不乱にメモを作成する姿。(大宮勘一郎ベンヤミンの通行路」にそのような写真が掲載されている。わたしも図書館の書架を彷徨い歩くことは多い。Jの棚、ジョイスとジュネ、「フィネガンズ・ウェイク」と「ブレストの乱暴者」を何度、手にとったことだろう!)
パサージュ論は、正しい仕方でパサージュを遊歩する記録になっている。パサージュについて記述しているのみならず、その形式ですら、パサージュを遊歩する体験を記述することができている。彼の記述した文字の町を遊歩する。都市を遊歩する、それも楽しげにというのではなく疲労困憊するまで、疲れきって陶酔するまで、そうした身体には外部のさまざまな意味作用が流れ込んでくる。能動性を失った身体は暴力的に都市に曝されて表象が流れ込むのをおしとどめることができない。都市は特に、物質そのものが内在している訳ではない価値に溢れている、つまり、流通のなかで価値が付された商品が多く露出している。そしてそれらは、アーケード街においてとりわけ剥き出しになる。遊歩する者の視線の先には常に陳列された意味作用がある、しかも都市生活者の精神に釣り合った価値を反映して。解体された心理状態の博覧会場、露出趣味の家々の庭先を渡り歩くようにして、パサージュを通過する。無為に歩いている。歩きなれて右折左折すら無意識におこなってしまうくらいの道、延々とつづく岐路のない道を行く、はっきりとした目的もないまま無駄に過剰な距離を歩いている。


どのようにして孤独を保てるというのだろう?人に接する時間が増えれば増えるほど、そしてその人の理解力が大きければ大きいほど、自分の考えていることをすぐに話してしまいたくなる衝動を止めるのに苦労するだろう。話してしまってそれが理解され受け入れられた途端、そこから先へと思考を深めるのは相当骨が折れるのに違いない。もしも孤独という条件があらかじめ与えられていたのなら、思考を延伸させることは苦にならないだろう。十分にそれをしないままに伝えかねないくらいに、他者が物理的に近くにいるというのは覚悟のいることだ。内面が削られて外在化し、しかも薄っぺらになってしまいかねない。他者との即時の対話によって得られるものの質には限りがある。斎藤環は、ぬるい共感、と表現しただろうか?
他者が暴力的に介入してくることを余儀なくされるとき、孤独は所与の条件ではなく、努力してこそ得られる環境へと変化してしまう。そのことに気がつかず、孤独を失った結果無為をも失って、自分の周囲からパサージュが消失してしまう。阻止しよう、身体に適切な負荷を与えて、適切な疲労を得るまで動き続けることで、ひとり過剰に歩き続けることによって。