ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論(2)ボードレールのパリ」

Walter Benjamin「The Archades Project/Das Passagen-Werk」


ギース論の中の讒言に見られるルソーの対蹠者としてのボードレール。「われわれが必要品と必需品の次元から抜け出て、贅沢と娯楽の次元に入り込むや否や、自然はもはや犯罪を勧めることしかできないのは、われわれの見るとおりである。親殺しや食人の風習を創り出したのもこの不謬の自然なのだ。」ボードレール『ロマン派芸術』パリ、100ページ(p.26)
ボードレールによれば、自然は犯罪というただ一つの贅沢しか知らない。そこから人工的なものの重要性が生まれる。子供たちは原罪に一番近いという見解を説明するには、あるいはこの考えを使う必要があるかもしれない。子供たちは感情過多で、しかも自然なので、悪行を避けることができないからということだろうか。ボードレールは結局は親殺しのことを考えているのだ。(『ロマン派芸術』パリ、100ページ参照)(p.30)


ティボーデが、ボードレールにおいては告白と韜晦の間に相関関係があると言っているのは適切な指摘である。韜晦のおかげで、彼の自尊心は、告白しても傷を負わずにすむのだ。「ルソーの『告白』以来、わが国の私的文学はすべて、壊れた典礼家具、倒壊した告解室から出て来たように思われる。」ティボーデ『内面の作家たち』パリ、47ページ(「ボードレール」)。韜晦とは原罪の一つの形姿だ。(p.56)


「旅」(『悪の華』)第1節について。遠さを夢みるのは幼年時代だけのこと。旅人は遠くの国々は見はしても、遠さに対する信仰を失っている。(p.214)


現代性が古代と、もっとも類似している点は、そのはかなさにある。『悪の華』が今日まで変わることなく共感を得ているのは、大都市が初めて登場したときに大都市が見せたある特定の側面と関連している。この側面はもっとも予想しがたいものである。ボードレールが詩句の中でパリを喚起するときに彼の中で共振しているものは、大都市というもののもつ脆さと壊れやすさなのである。そうした脆さと壊れやすさがもっとも完全に描かれているのは、おそらく「朝の薄明」(『悪の華』の「パリ風景」の中の詩篇)であろう。「朝の薄明」は都市を素材にして、目覚めゆく者の啜り泣きを摸して作られたものである。しかし、こうした側面は多かれ少なかれ「パリ風景」の詩すべてに共通している。この側面は、都市の透明性に現れている。そうした透明性は、たとえば「太陽」(「パリ風景」中の詩篇)でみごとに浮かび上がって来るし、「白鳥」(同)におけるルーヴル宮殿アレゴリー的喚起にも姿を現わす。(p.246)


岩波版パサージュ論全5冊のうち、ボードレールに関する草稿だけを集めた巻。ベンヤミン自身がボードレールの作品や書簡に抱いた感想をメモしたもの、他の批評家の意見の抜粋など、膨大な断章で構成されている。ボードレールの没年が1867年でベンヤミンの生年が1892年だから、それにふさわしい距離感がある。つまり「悪の華」などのまとまった作品だけではなく、実際にボードレールに会った人の感想や、ボードレールベンヤミンの間の時代に位置する人の意見を気に留めるという点が見られる。
解説でも述べられているが、これだけのメモが残っていたら、ここからベンヤミンが書くはずだったボードレール論を再現したい、という気持ちが湧くのは読者として自然なことだろう。


※実際に読んでいるのは単行本の旧版、ページは旧版のもの