ミシェル・フーコー「監獄の誕生」

Michel Foucault「Discipline and Punish: The Birth of the Prison」


……、<近代的な>法典の立案もしくは起草、……明確に述べられた普遍的な法典や整理統合された訴訟手続規則をふくむ制度上の大変革と、この身体刑の消滅とを比較した場合、それの重要性は何であろうか、つまり、陪審制度がいたる所で採用され、刑罰の矯正的な根本性格が規定され、罰される個々人に応じて懲罰の調子を変えようとする傾向が十九世紀以来たえず強調されている、こうした事態と比較する場合に。……身体刑を課せられる身体、切り刻まれ、手足を切断され、顔面や肩に象徴として烙印を押され、生きたままで、もしくは死体として晒し者になり、見世物にされる、そうした身体は数十年のうちに消滅した……、それはまた、身体への拘束力がゆるむことでもある。……処罰の実施は遠慮深くなっていった。……身体じしんではない何物かに身体において到達するためだ、という事態になっている。……死刑執行人、すなわち死刑囚の苦痛にじかにふれる解剖家のかわりに登場してきたのが、一団の専門家たちであった。すなわち、看守、医師、司祭、精神病医、心理学者、教育者である。(p.13)


犯罪訴訟の手続きは、判決にいたるまでは秘密にしておかれていた、つまり、公衆にだけでなく被告人自身にも不透明なままであった。……被告人は訴訟手続書類に近づきえず、告発者が誰であるかを知りえず、証人を忌避するに先立って証言の意味を知りえず、訴訟の最終時点まで無罪の弁明を行いえず、訴訟手続の適法性を証明するためであれ、もしくは根本的には被告側に参与してもらうためであれ、弁護士をもちえないのだった。(p.39)


懲罰を介して犯罪を明瞭なものにすること、それが処罰を犯罪と釣合わせる最良の手段である。そのことが司法の勝利であるとするならば、やはりまたそれは自由の勝利でもある。というのは、その場合に刑罰はもはや立法者の意志から生じるのではなく、事態の成りゆきから生じるのであって、人々はもはや人間が人間に暴力をふるうのだとは考えなくなるからである……制度によって自然なものとなり、自らの形式をとおして犯罪の内容を再現する……公的な自由を濫用する者は、彼個人の自由を剥奪されるべし、法のもたらす恩恵や公職の特典を濫用する者は、その市民権を取りあげられるべし、また、罰金科料は、汚職や高利による金貸しにたいする処罰とし、没収は盗みにたいする、加辱は「虚名」を弄する犯罪にたいする、死刑は殺人にたいする、火あぶりの刑は放火にたいする、それぞれ処罰とすべし。毒殺者については、「死刑執行人は彼に毒杯を見せ、彼の顔に毒液をそそぎ、顔の有様を本人に見させて大罪の恐しさをいやというほど分からせたのち、煮えたぎる熱湯の釜のなかに突き倒すべし」。(p.110)


目には目を、歯には歯を、というハムラビ法典に代表されるタリオ法を演繹すると、殺人には殺人を(殺人犯は殺されるべし、国家によって死に処されるべし)という結論が得られる。私が死刑制度を敬遠する主な理由は、この古い古いタリオ法が、矯正教育予防を主眼とする現在の刑法の主旨にあまりにも合わないからだ。
フーコーがタリオ法を立法者の存在を消去する法だと捉えたのとは別の考え方として、タリオには民法的な意味合いもあるらしい。目を潰された者が背負うことになる損害を、目を潰した者が確実に背負うことになるという担保、しかも、決して過剰にならない。


……閉じ込められる者が受刑者であっても、……病者を閉じ込めても……、狂人の場合でも……、子供の閉じ込めであっても、……労働者の場合でも、……集団的な効果たる、こうした群衆が解消されて、そのかわりに、区分された個々人の集まりの効果が生じるわけである。……その点から生じるのが<一望監視装置>の主要な効果である。つまり、権力の自動的な作用を確保する可能性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者にうえつけること。……囚人が監視者にたえず見張られるだけで充分すぎるか、それだけではまったく不充分か、なのだ。まったく不充分と言うのは、囚人が自分は監視されていると知っているのが肝要だからであり、他方、充分すぎると言ったのは、囚人は現実には監視される必要がないからである。そのためにベンサムが立てた原理は、その権力は可視的でしかも確証されえないものでなければならない、というのであった。(p.203)


建築畑の人々にはタイトルだけは周知されている本だが(大学の授業で教わったと思う)、実際に読んだ人は少なかろう。例によって豊富な一次資料を駆使し、フーコーの博覧強記ぶりは冴え渡っているのだが、そのあたりの一次資料を歴史読物として興がって読めない人にとっては、枝葉ばかり多い本だと感じるのではないだろうか。
彼は、近代権力による統治の雛形を、一望監視装置(パノプティコン)という牢獄形態に見いだした。その事実は、建築が人間社会に与える力を信じる人々や、建築そのものが社会に対するクリティシズムになりうると考えている人々に、勇気を与えたにちがいない。
ただ、今の社会も一望監視装置で説明がつくかというと、そう事態は簡単でもない。少なくとも、法違反を監視する視点は、権力者による「一」望ではなく、市民による「多」望になりつつある。そのような世界において、権力者による統治はどのようになされるのが適正或いは戦略的に正しいのだろう。そしてその標石となるような建築形態を、建築を生業とする人々(私も含むのだが)は据えることができるのだろうか。




ジョルジョ・アガンベン「事物のしるし 方法について」

Giorgio Agamben「The Signature of All Things: On Method」


美的判断で考えられる必然性としては、必然性はただ範例のかたちでしか定義されえない。つまり、提示することのできない一般的な規則の範例として見なしうる一つの判断に全員が合意するという必然性としてである。(カント「判断力批判」、本文p.31)


文法が構成され、その規則を考察できるのは、パラダイム的な実践を通してのみ、つまり言語的な範例の提示を通してのみである。とはいえ、文法の実践を定義する言語の使用とはどのようなものなのだろうか。どのようにして、文法の範例は生み出されるのだろうか。……ここで本質的なことは、指示と通常の使用の宙吊りである。かりに言語学者が遂行動詞のクラスを定義する規則を説明するために「わたしは誓う」という範例を口にしたとしても、この語句が実際の誓いの発言として理解されるべきではないことは明白である。つまり、範例の役割をはたすことができるためには、語句は通常の機能を宙吊りにしなければならない。……実のところ、範例が規則から除外されているのは、通常の事例に属していないからではない。むしろ逆に、通常の事例への帰属を提示しているからである。その意味で、範例は例外と対称をなしている。例外が、除外されていることを通して包摂されている一方で、範例は、包摂されていることの提示を通して除外されているのである。(p.36)


記号が意味するのは、しるしを帯びているからなのである。しるしは必然的に記号の解釈をあらかじめ決定し、記号の使用と効力を、規則、実践、戒律に則って配分する。……「知の考古学」でフーコーは、言表のもつ純粋な現実存在としての性格をいくども力説している。……つまり言表は、ある存在者──言語──が生起するという端的な事実である。言表とはしるしであり、それが与えられてあるという純粋な事実によって言語にマークをつけるのである。(p.100)


数ヶ月前に読んだ本。「記号が事実確認的なものであるとすれば、しるしは行為遂行的を含意している」
1年半前にウィトゲンシュタイン論理哲学論考」を読んだときに、「わたしはあなたを・・と名付ける」というような行為遂行動詞は記号で表現できるんだろうか、という疑問を抱いてこの読書メモに残した。それに対して見識ある友人が、教科書に通りだとこう表現できるよ、とメールで教えてくれたことがあった。私もちゃんと調べればよかったなと思う反面、でも本当に引っ掛かっていたのはそういう点ではなかったような気が漠然としていた。
ゴッドファーザー(洗礼儀式での名付け親)のことを思い出すのだが、名付け行為は、言語学的には象徴的なふるまいをする。その発言行為が、彼ら同士の関係を父子であると規定してしまうのだから。
…思考の端緒をたぐりよせたような気はするが、なにぶん記号論も論理哲学も記憶の彼方だ。




谷崎潤一郎「痴人の愛」



普通の場合「夜」と「暗黒」とは附き物ですけれど、私は常に「夜」を思うと、ナオミの肌の「白さ」を連想しないではいられませんでした。それは真っ昼間の、隈なく明るい「白さ」とは違って、汚れた、きたない、垢だらけな布団の中の、云わば襤褸に包まれた「白さ」であるだけ、余計私を惹きつけました。(p.196)


ミシェル・フーコー「性の歴史1 知への意思」

Michel Foucault「The History of Sexuality Vol.1:The Will to Knowledge」


次のような反論があるかも知れぬ。言説のこのような増殖は、そこに単なる量的な現象を、単純な増大であるような何かを見ただけでは間違いであると。つまりそこで言われている内容はどうでもよいとか、それについて語ること自体が、それを語る際に課せられる要請の形式よりも重要であるかのようにしてだ。というのも、このような性の言説化は、現実の世界から、生殖という厳密な運用構造(エコノミー)に従わない性的欲望(セクシュアリテ)の形態を追い出すという務めに定められているのではないか。不毛な活動を否定し、的外れの快楽を追放し、生殖を目的としない行動を減少あるいは排除しようというのではないか。これほど多くの言説を通じて、人々は、取るに足らぬ倒錯を法的にますます断罪するに至った。性的に不規則なものを精神病に結びつけた、幼児期から老年に至るまで、性的発達の基準を決定し、すべての可能な逸脱を注意深く特徴づけた。教育上の管理と医学的治療法とを組織した。取るに足らぬ気紛れな行為のまわりに、道学者と、とりわけ医師とが、大袈裟な嫌悪の語彙を狩り集めた。こういうすべては、生殖に中心を定めた性行動(セクシュアリテ)のために、かくも多くの実りなき快楽を吸収するために仕組まれた様々な手段なのではないか。性行動のまわりに、過去二、三世紀にわたって、我々がかしましく繰り展げた饒舌なこの注意は、一つの基本的な配慮に基づくものではないのか。すなわち、人口の増殖を保証し、労働力を再生産し、社会的関係をそのままの形で更新すること、要するに、経済的に有用であり、政治的に保守的な性行動を整備することである。(p.47)


西洋社会は、告白というものを、そこから真理の算出が期待されている主要な儀式の一つに組み入れていた。……「告白(aveu)」という語ならびにこの語が指し示してきた法律的機能の変遷は、それ自体において特徴的である。他者によってある人間に与えられる、身分、本性、価値の保証としての「告白」(例えば告解)から、ある人間による、自分自身の行為と思考の認知としての「告白」(自白)へと移ったのである。……我々の社会は、異常なほど告白を好む社会となったのである。告白はその作用を遥か遠くまで広めることになった。裁判において、医学において、教育において、家族関係において、愛の関係において、最も日常的次元から最も厳かな儀式に至るまでである。(p.76)


……権力は規律を宣言することによって働きかける。性に対する権力の介入は、言語によってなされる、というかむしろ、それがまさに言説として発せられるという事実によって、一つの法律状態を作り出すような言説行為を通じてなされるあろう。権力が語る、するとそれは規律なのだ。……近づいてはならぬ、触れてはならぬ、味わってならぬ、快楽を覚えてはならぬ、語ってはならぬ、姿を見せてはならぬ。極言すれば、存在してもならぬのだ、闇と秘密の中でなければ。性に対して権力は、ただ禁止法のみを働かせるはずだ。その目的とは、性が自分自身を放棄すること。その道具とは、性の消去に他ならぬ罰という脅迫である。汝自身を放棄せよ、違反すれば消去されよう。消されるのがいやならば、姿を見せるな。お前の存在は、ただお前の廃絶によってのみ保たれるだろう。……(p.109)


権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが公使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。(p.119)


長いあいだ、君主の至上権を特徴づける特権の一つは、生と死に対する権利(生殺与奪の権)であった。(p.171)


死刑は長い間、戦争と並んで、剣の権利のもう一つの形態であった。それは、君主の意思、その法、その人格に危害を加える者に対する君主の対応をなしていた。死刑場で死ぬ者は、戦争で死ぬ者とは正反対に、ますます少なくなっている。しかし後者が増え前者が減ったのは、まさに同じ理由によるのだ。権力が己が機能を生命の経営・管理とした時から、死刑の適用をますます困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由と権力の存在の論理とである。権力の主要な役割が、生命を保証し、支え、補強し、増殖させ、またそれを秩序立てることにあるとしたなら、どうして己が至上の大権を死の執行において行使することができようか。このような権力にとって死刑の執行は、同時に限界でありスキャンダルであり矛盾である。そこから、死刑を維持するためには、犯罪そのものの大きさではなく、犯人の異常さ、その矯正不可能であること、社会の安寧といったもののほうを強調しなければならなくなるのだ。他者にとって一種の生物学的危険であるような人間だからこそ、合法的に殺し得るのである。
死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代って、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた、と言ってもよい。死に伴う儀式が近年廃ってきたということに示される死の価値下落も、恐らくこのようにして説明されるだろう。死をうまくかわすためにする努力は、我々の社会にとって死を耐え難いものとしている新しい不安に結ばれているというよりは、むしろ、権力の手続きがひたすら死から目を外らそうとしてきたことにつながっている。(p.174)


……我々としては想像しておかなければならないのだ、性的欲望という策略と、そしてその装置を支えている権力の策略が、いかにして我々を性のこの厳しい王制に服従させて、我々をして性の秘密をこじ開け、この暗がりの中から最も真実な告白を強奪するという際限のない務めに身を捧げるまでに至らしめたのか、それを、身体と快楽の別の産出・配分構造の中では、もはやよく理解し得なくなるような日が、やがてはやって来るだろうということを。
この装置の皮肉は、そこに我々の「解放」がかかっていると信じ込ませていることだ。(p.202)


性の歴史は1〜3まであるのでまずはポイントだけ;
フロイトの功罪
・愛の告白/罪の自白の絶対性
・言説行為による律法支配
・禁止の法とBartleby
・死刑の廃れ


アビ・ヴァールブルク「蛇儀礼(クロイツリンゲン講演)」

Aby Warburg「Images from the Region of the Pueblo Indians of North America」


アガンベンをよく読むのだが、イコノグラフィー的な領域に突入すると引用元として頻出するのがヴァールブルクだ。Warburg Instituteで研究していたのが一因なのだが。いつかどれか著作を読もうと思っていたところ偶然見かけたのが「蛇儀礼」で、しょっぱなから何てニッチな選択をしてしまったんだ、とは後の祭りだが、よくよく調べると彼の著作は気軽に読めそうな邦訳ってこれくらいしかない。
解説にある彼の生涯が興味深い。裕福な銀行家の家に生まれるも跡継を拒み、代わりに手にした資金で図書を収集し研究所を設立する。ユダヤ人だったために、大戦中は図書の場所を移動しつつ研究所を存続させていた。精神病にかかりビンスヴァンガーの病院に入院したが、退院にあたり自らの回復を証明するために医師たちの前で講演を行った、これがクロイツリンゲン講演であり本書の内容だ。
という訳でまず圧倒的に伝記が面白そうなので、元Warburg Institute所長ゴンブリッチの「アビ・ヴァールブルク伝」を読みたい本リストの上位陣に加えようと思うのだが、ふらりと立ち寄った書店なり本屋なりで「美術の物語」以外のゴンブリッチに出会える確率ってどれくらいあるんでしょう。


蛇は、いったいこの世界においてなぜ根源的な破壊と死が、そして苦しみが起きるのか、という問いに対するまさにさまざまな地域にまたがる返答のシンボルなのです。キリスト論の考え方が、苦痛と救済の総体を蛇のシンボルで表現するために、キリスト教以前の異教の蛇の形象言語を使っているさまを、私たちはリューディングヴォルト村の例で見てきました。人間の絶え間ない苦しみが救済を求めるところには、蛇は、因果関係を説明するイメージとして手近なものなのです。蛇こそは、「かのように」の哲学の中で一章を割かれるべきでしょう。(p.89)


サイモン・シン「暗号解読(上)(下)」

Simon Singh「The Code Book」


フェルマーの最終定理」はずいぶん前に読んだ。自然科学系の本はどうも敬遠しがちな私が彼の本をすいすい読んでしまうのは、ヒューマンドラマが描かれているためだと推察するのだが、そもそもそういう人文系の取っ掛かりがないと読みにくい、興味が持続しずらいという辺りが、本質的に私には理系学問の趣味がないことをよく示している。数学も物理も化学も成績は良かったが理系の研究者になれないのはそういう訳だ。研究者として生計を立てる人というのは、勉強ができる人ではなく勉強が好きな人だ。結果として成績水準は高いのだが。いま周りにいる職業研究者を見ていると、多くの人は「大学への数学」を購読し、ブルーバックスを愛読し、フェルマーが解けたこともリアルタイムで把握していた。


暗号の作成と解読、古代文字の解読から量子コンピュータの解説までを上下巻かけて走り抜ける。暗号が歴史を変えたというような劇的な書き方をしているが、別にそれがなくたってスコットランド女王メアリーが復権するなんて有り得なかったし、第2次世界大戦の戦況が変わることもなかった。近年のRSA暗号などは完全にテクニカルな問題で、開発者のヒューマニティは過去の史実に比べると卑小だ。というくらいにクールな姿勢で読んだつもりだが、やっぱりサイモン・シンの力量は凄い。
ひとつ難があるとすれば、内容が、著者の拠点である英国に贔屓めであること。資料がより多く集められたのだろうから致し方ないのだが、暗号解読の能力は英国に分があると勘違いしやすい。

トム・ロブ・スミス「チャイルド44」

Tom Rob Smith「Child44」


冷戦を知らない世代(1979年生)が描く旧ソ連スパイ物(正しくは国家保安省)という触れ込みに惹かれて読む。ヒーローとヒロインが美男美女というのは定番だが、この2人が最後まで愛し合わないというのは珍しい。2009年このミス1位。海外編のランキングは結構信頼しているんですよね。本作も結構宜しい出来。
このミステリを重厚にしているのは明らかに旧ソ連内部の抑圧を残酷に描ききっているから。ソルジェニーツィン読みたい。大江さんがあれだけ取り上げてたのに未読だったとは。